LOGIN サン=ポウル学院は
サン=ポウルの日常は基本的に規則正しい生活其の物だった。朝七時に生徒達は一斉に起床し、ビュッフェ形式の朝食を摂る。授業は一般教科の国語や数学の他、芸術、運動教科にも力を入れている。イレヱヌは運動教科では乗馬が好きだった。元々動物は大好きだったし、賢くて穏やかな馬はとても魅力的な生き物だった。サン=ポウルは自然豊かな環境に建てられているため、馬に乗って瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良かった。草と土の匂いを感じるとプラザホテルに住んでいた頃、時々セントラルパークでジャンヌとピクニックをした事を思い出した。亜米利加に居る間にパパに馬をおねだりしてみるべきだった、とイレヱヌは少し後悔をする。因みに乗馬は好きだが
一番好きな授業は芸術だった。オウケストラ、デッサン、彫刻、絵画。そして此処では大好きなバレエや演劇も授業で習えた。イレヱヌは授業以外の休日でも許可さえ貰えたら踊りの練習をし続けた。黒鳥のバリエイションの練習に熱中していたのに、何故か亜米利加の小学校で投げつけられた嗤い声が頭の中に響き渡る。此方を嘲笑う真っ黒な眼。まるで檻に入れられた動物を視るような眼だ。
(あんた達なんか)鏡には王子を誘惑しようとする妖艶な黒鳥ではなく、眼差しだけで射殺そうとする悪魔の娘が映っていた。
(あたしは、あんた達なんかの手には届かないところまで行ってやる)黒鳥の三十二回のフーチエを回りながら何度も何度も心の中で言い続けた。自分は二度とあんな奴等に敗けない。頭の中で泥で汚れ、ぼろぼろにされた雑誌が思い浮かぶ。(あんな惨めな思いは二度としない。あんな奴等入り込めない居場所を自分で作るんだ)
午前中は六つの一般科目を学び、休憩中にホットショコラを飲んだ後午後からは運動若しくは芸術科目を学ぶ。授業の後は個々で勉強をし、21~23時には就寝する。此れが毎日の
イレヱヌはサン=ポウルではごく普通の生徒だ。其の事が何よりも嬉しかった。学校では共用語は英語と仏蘭西語なので普段の生活には全く困らない。そしてイレヱヌにとって喜ばしいのは此処では聞き苦しい亜米利加英語を耳にしないことだった。此処で飛び交うのは間大西洋
「おい、真面目にやってんのかよ」
苛立ちを現にした声がイレヱヌに向けられる。イレヱヌの敵、シリル・ベネディクトだ。シリルは
此の日は祖国の歴史について
「やってる」顔も合わせたくはないため、本に目を落としたまま答えた。艶のある淡い赤褐色から橙褐色の
「嘘つけ。お前さっきから服飾史と美術史の本しか取ってないぞ」シリルはイレヱヌを
(何でいちいちそんなこと見てるんだろ)そう思いつつも嫌いな相手には態々口にしようとも思えない。
「
「服や芸術だって国の大切な歴史だと思う」とだけ返した。イレヱヌは歴史の勉強は嫌いでも苦手意識があるわけでも無いものの、やや退屈に感じてしまった。其処で少しでも自分が興味を持てる分野に焦点を当てた
「冗談だろ。そんなもの発表してみろよ。皆から嗤われるのが目に見えてる」
「“祖国の歴史”そう先生は仰ったんだぞ。何も聴いて無かったのか?お前何時もボーッとしてて何も考えてないもんな?」
ハッとシリルは鼻で嗤った。(死んだらいいのに)イレヱヌはとうとう堪えかねて反射的に
「
「聞こえちゃった?」バツの悪い気持ちで聞き返した。「出来れば先生達には報告してほしくなくて…」ぼそぼそと口ごもりながら懇願すると
「言わないよ!面白かったし!彼奴すっごく間抜けな顔してた!言い返されると思わなかったのかな?」とけらけらと笑われた。
「僕はセシル・マグワイア。
生徒はセシル・マグワイアという名前の亜米利加出身の子だった。曾祖父に当たる人は石油産業の開拓者で父は上院議員のアンソニー・マグワイアらしいと後で知った。アンソニー・マグワイアは特にニュウスを真剣に観ている訳ではないイレヱヌにも聞き覚えの有る名前だった。人に言わせればセシルは“サン=ポウル学院創立以来の不良生徒”らしい。朝は平気で寝坊をしたり、授業を欠席する。平気で飲酒、喫煙もするし、恋人はしょっちゅう変わる。祖国は亜米利加だが、頻繁に外泊をして、日曜日の夜帰ってくるらしい。時々巴里まで足を伸ばしてディオールやシャネルの新作を大量に購入する事もある。夜遊びをしてフランソワーズ・サガンとも交遊するようになったとも聞いた。イレヱヌがセシルのことを最近まで知らなかったのも無理は無かった。規則正しい生活をしている中では顔を合わせる機会は余り無い。
イレヱヌはセシルをてっきり女の子かと思ったのだが本当は男の子だった。四肢が華奢だし首筋も繊細で声が何処か甘い響きがある。髪は短いが、其の年はちょうど「悲しみよ、こんにちは」が映画化しピクシーカット(此の時は映画の影響もあり、セシルカットと言われていたが)が流行っており、セシルはジーン・スィバアグに引けを取らないほどピクシーカットが似合っていた。そしてセシルという名前は仏蘭西では女性名なことでイレヱヌは更に混乱した。
「セシルの事、最初女の子なのかと思っちゃった」
“ティファニーで朝食を”はセシルの次にイレヱヌが借りた。カポーティは実家のパーティーで数回会ったことがあった。若かりし頃は美少年と言われたらしいが頭が大きくて小柄な甲高い声をしたカポーティはイレヱヌには“胴体の生えたハンプティ・ダンプティ”にしか見えなかった。(この感想をセシルに述べたところ、セシルは息も出来なくなるほど笑い転げた)下衆な男と評判のため悪印象しかないが、小説は好きな物が多い。
「其れよく言われるんだけど、男か女かってそんなに重要?」「僕は美しい。其れだけで十分じゃない?」セシルは胸を張って自信満々に言い切り、イレヱヌは思わず吹き出した。セシルも
こうして
仏蘭西史上最も悪名高い王妃カトリイヌ・ド・メディシス、何の功績もない無能な二番目の王妃マリィ・ド・メディシス、仏蘭西史上最悪の悪女ルイ十四世の寵姫モンテスパン夫人、仏蘭西革命のスケープゴートにされたマリィ・アントワネットに特に時間をかけた。
人選は仏蘭西国内で有名であることや功績、悪行の目立つこと、そして何よりもイレヱヌが興味を持てるかどうかが重要なポイントだった。ジャンヌ・ダルクは紹介したものの、正直言ってイレヱヌは余り興味を持てなかった。中世自体が魅力を感じられない時代だし、百年戦争の過程にも興味は無い。ジャンヌの神の声を聴いたという逸話に至ってはそもそも信じていなかった。歴史に其処までの興味は無いためアンリ四世の宗教改革に影響を与えたガブリエル・デストレや、三枚のペティコオト作戦のポンパドゥウル夫人に関しては余り深掘りはしなかった。
しかし、宮廷での女の争いに関する逸話は面白いため、カトリイヌ・ド・メディシスやディアーヌ・ド・ポワティエ、モンテスパン夫人と前寵姫ルイィズ、マリィ・アントワネットと寵姫デュ・バリィ夫人などの世にも恐ろしい女同士の争いは
資料には写真をふんだんに使い、イラストを加えて完成させた。資料を探して調べる事や、
セシルは確かに亜米利加の過去から現在に至るまでの著名な人物達を挙げたが、それは歴史上の偉人ではなく、ジョン・デリンジャーやボニーとクライドなどのアウトロー、“ワイルド・ビル”ヒコック、“平原の女王”と称されたカラミティー・ジェーン、ビリー・ザ・キッドといったガンマン、禁酒法時代の黒いヒーローアル・カポネ、リリアン・ギッシュやメイ・ウエストなどの往年の大女優達だった。イレヱヌは西部劇のモデルとなった人物達やリリアン・ギッシュやメイ・ウエストなど好きな女優についての話を聞けるためセシルの発表を楽しんで聞いていた。しかし先生は困惑しており、此れでは亜米利加の歴史ではなく、犯罪史と映画史だという感想を述べた後に、追加でもう一度真っ当な歴史の
「納得がいかないよ。
「セシル、其の台詞あたしはもう百回は聞いたよ」同じことを何度も聞かされたイレヱヌがため息をつきながらそう口を溢した。「だって納得がいかないよ。こんなに詳細に調べているのに」セシルは拗ねて口を尖らせていた。
「亜米利加についてだから、ジョオジ・ワシントンとかエイブラハム・リンカアンの功績だったり南北戦争とか奴隷制について触れた内容が期待されてたのかもね」イレヱヌはセシルを宥めながらそう言った。「次はそういう内容にしてみたら?」
「そんなの面白くないよ…。あーあ、もう憂鬱になっちゃう。こんなに頑張ったのにまた一から調べ直して提出だなんて」頬を膨らませてすっかり機嫌を損ねてしまった。
「確かに、発表はセシルが一番面白かったよ」
イレヱヌは正直な感想を述べた。実際セシルの発表は面白かった。調査が非常に緻密でリアリティーが有るだけでなく、セシルが人物一人ひとりになりきりながら臨場感たっぷりに発表する様はまるで成果の発表ではなく
「そう思うでしょう?少なくとも皆は一番僕の発表を真剣に聞いていたよ。僕が歴史や国語の授業をしたら絶対に人気が出るよ」
「セシルが先生をやるの?」イレヱヌは思わず吹き出してしまった。イレヱヌの知るセシルは平気で朝寝坊をしたり、授業を欠席する。制服も既定のワイシャツやネクタイを身に付けず、繊細なレエスが縁取られたブラウスに
「ははっ。オカマが教職に就く時代なんか来たら此の世の終わりだな」不愉快な声が聞こえた。案の定シリル・ベネディクトが其処にいた。友人のヘンリイ・スペンサア、エドガア・ボウルドウィンも一緒に居る。先生方の居る時には其のような言葉を使わない癖に、とセシルの卑劣さに腹が立った。セシルの前に立って応戦しようとすると、セシルが静止をしてシリルに近づいた。
「へえ、何でそう思うの?」にんまりとまるでチェシャア猫の様な笑みを浮かべながらセシルは尋ねた。シリルはセシルの
「お前みたいな不品行な人間が人に何かを教える立場になんかなれるわけ無いだろ。父兄から石を投げられる未來が見えるよ。男にも女にも手当たり次第手を出しやがって気持ち悪い。お前がこの間トイレで上級生達と何やってたか知らないとでも思ったか?」と蔑みながら言った。ヘンリイ、エドガアも軽蔑の表情を隠そうと表情をしなかった。
「あはは、此の時代になってもそんなこと言うんだ?今は1957年だよ。
「ふざけやかって!此の変態
「シリル・ベネディクト」シリルはぎくりと肩を強張らせた。あろうことか校長のシャルル・ボドリィが聞き咎めたのだ。
「紳士とは思えない言葉ですね。
三人は顔を見合わせるととぼとぼと着いていった。敵から解放されてイレヱヌはほっと息を吐き出す。セシルは三人の後ろ姿をみてけらけらと笑っていた。セシルの其の様子を見てイレヱヌは
「セシルったら、もしかして先生が近くに居たのに気付いてた?」と訊いた。
「うふふ。どうかな?」悪戯っぽくセシルが笑いウインクをしてみせた。笑った顔がジーン・スィバアグそっくりだった。イレヱヌも笑い返した。何故かとても可笑しかった。笑いが止まらない。お互いに見詰め合いながら笑い続け、廊下を駆け出した。
「イレヱヌ、僕卒業したら赤い風車で働く事になったよ!」セシルから驚きの報告があった。 「本当に!?」イレヱヌは驚嘆する。母が嘗て花形スターとして活躍した赤い風車の舞台に今度はセシルも立つなんて!こんな事が起こるとはイレヱヌは想像もしてはいなかった。 「凄い…」ようやっと其れだけを言った。 「イレヱヌはきっと驚いてくれると思った」セシルがにっこりと笑う。 「イレヱヌのママも赤い風車で働いていたんだよね?僕運命を感じちゃったよ。何だか凄く浪漫チックじゃない?」「確かに…」 そうだ、こんな事が起こるだなんてイレヱヌは想像すらしたことは無かった。自分がモデルになった事と言い、人生とは全く何が起きるか分からない。 「ねえイレヱヌ、イヴが新しくブランドを設立するのは知ってる?」 サンローランの友人の一人であるサガンから電話越しに驚きの情報がもたらされる。サンローランが軍隊の生活が原因で入院し、その後過酷な治療が原因で完全に憔悴しきっている事だけ聞いていたため、寝耳に水の情報だった。この世界に入った時、サンローランのデザインした服でウォーキングをするのはイレヱヌの夢の一つだった。そのチャンスが今、訪れた。イレヱヌの細胞一つ一つが熱を帯び、震えるのを感じた。 (他のモデルと同じことをしては、絶対にサンローランの眼には留まらない)イレヱヌはそう確信し、フリルブラウスに黒のハーフパンツ、と黒いジャケットを着た。白い靴下は牛革の靴下留めで固定する。セシルの制服姿から着想を得たものだ。自分の脚をいちばん長く見せられる、ウエストを細く見せられるバランスを探っていく。モード界で次々と革命を起こした天才イヴ・サンローランと会うのだ。彼と仕事をする事を望むモデルなどすぐに見つかるだろう。サンローランを惹き付けられる姿で彼と会わなければ、と気合いが入った。 セシルはブスッとした顔で其れを見詰め「何だかサンローランに恋してるみたいだね……」とぼやいた。 セシルは色んな人と恋をしてきたから気になるのかもしれないが、イレヱヌは勿論そんなつもりは全く無い。セシルの焼きもちは最早病気だ、と思った。髪はポマアドで一筋の乱れもないように固め、後ろで低くポニーテールにして纏める。なるべく中性
“ティファニーで朝食を”がサン=ポウル学院の映画館でも上映される。公開されるとセシルと二人で観に行った。仏蘭西と同じく一九六一年十二月六日だった。 「まあ、悪くは無かったとは思う」イレヱヌはカフェで一言感想を言った。「でもあれはもう、カポーティの描いた作品では無かったよ」セシルが不服そうに口を尖らせる。「どうして結末をあんなに変えたんだろう?」憮然とした表情のままぼやいた。 「パパが言ってたけど、映画は制作するのに膨大な時間とお金が掛かりすぎるから、其れを回収しようと思ったら、かなり大衆寄りな内容にする時もあるんだって」「原作のままだと賛否両論ありそうだから、夢のある結末に変えたんじゃない?」とイレヱヌが考えを述べると 「あれじゃカポーティの小説を原作にした意味が無いよ。ただの薄っぺらい恋愛映画!あの苦い結末が物語に深みを与えてるのに!」セシルは天を仰いで大声で嘆き、 「そもそもどうしてホリーはマリリンが演じられなかったんだろう……」と溢す。 「マリリンは業界では無責任な女優って評判らしいから、|危険性《リスク》が有りすぎると思われたかもって聞いたわよ」「遅刻癖が酷いし台詞も全然憶えてこない役者は制作会社が絶対に嫌がるって」 「カポーティはマリリンを熱望していたのにね…」セシルはガッカリとした様子でポツリと呟いた後に「ま、あの映画のお陰でティファニーは随分と売り上げが上がるだろうね」皮肉を込めてそう評した。間を置くと「ところでイレヱヌ」セシルは妖しい笑みを浮かべてイレヱヌの頬に手を沿わせる。 「僕らも今日は“善きこと”に没頭すべきじゃない?一晩中」 “ティファニーで朝食を”のホリーの台詞の引用だ。言葉の意味とセシルの表情で何を指しているのかが理解り、卓子の下でセシルの脛を爪先で軽く蹴った。 「そんな事、外で言うもんじゃ無いわ」と嗜めながら珈琲を一口飲んだ。 「どうして?ホリーも言ってたじゃない?『あなたが善きことをしているときだけ、善きことが起こる』『不正直な心を持つくらいなら、癌を抱え込んだほうがまし。癌はあなたを殺すかもしれないけど、もう一方のやつはあなたを間違いなく殺す』って」 イレヱヌは呆れ、思わず「その正直に生きた原作のホリーの末路はどんなものだったの?」と訊いてしまう。 「原作のよ
一九六一年秋イレヱヌ達は高等部の三年に上がっていた。来年の八月にはサン=ポウルを卒業する。楽しみなような、ほんの少し寂しさが入り交じったような複雑な思いだった。その頃にはイレヱヌ、セシルも仕事に慣れてきた。セシルはもう少し実力をつけてから本格的なオーディションを受けるのだと胸を張っていた。「詳しいことは何れ教えるよ」セシルが目を輝かせて夢を語るのを見るのがイレヱヌは大好きだった。 イレヱヌはシャンゼリゼ通りを歩いている。ラデュレのマカロンを買うためだ。アンヌとジュリエットが此方のマカロンが大好きだと云っていたため、お土産に買ってあげたかった。店内に入ると、甘い馨りが広がっていた。イレヱヌは多幸感に包まれ、すう、と息を吸い込んだ。(ジュリエットはショコラが特に好きって言ってた、アンヌはピスタチオだったっけ……。そうだ、セシルにも買ってあげなくちゃ)その他にも、紅茶を買い意気揚々として外へ出る。 暫く歩くと人だかりが列を成して歩いている。黒髪にうっすらと褐色の肌の色をしている。アルジェリア人達だった。イレヱヌは思わずびくりと反応してしまう。アルジェリア人は住環境整備が整わないまま仏蘭西に来たため、治安の悪いスラム街に住んでいるらしいとテレビのニュウスや街の噂などでイレヱヌも知っていた。思わず身構えてしまったが、彼らは武器の様なものは持たず、女性や子供も何人もいるため、平和なデモ隊であることが直ぐに理解った。周りには不安そうな眼で見ている人も多い。しかし彼らを責めることは出来ない。イレヱヌだって、眼にしただけで不安になってしまったのだ。(何に対するデモなんだろう?)周りに危害を加えないことを確認すると、其れ以上の興味も無かったため素通りする。そのままルイヴィトンでキャリイケエスを購入し、ブラッスリー・フーケでカプチーノを飲んで一休みをした後にアパルトマンに戻った。 すっかり日も落ちた頃、アパルトマンへ帰る途中にパトロオルカーの警報音が聞こえた。何か事件でも起きたかな、また独立反対派のテロだろうか、などと不穏な想像をしながらアパルトマンに帰ると、大家が血相を変えて駆け寄ってきた。「ああイレヱヌ、無事だったのね。良かったわ」「えっどうしちゃったの|女将《マダム》」驚きながら尋ねると「巴里の彼方此方でアル
仕事は順調だった。しかし予期しない出来事は起こってしまうらしい。「ねえ、イレヱヌ。僕ら、付き合って其れなりにたつよね?」珍しく真剣なセシルの様子にやや気圧されながらも、「そうね、其れなりに…」と同意する。「イレヱヌ、僕達、今後も付き合い続けるにあたって長続きするための努力はすべきだと思うんだ」「うん」「だから……僕、どうしても知って欲しい事があって……」セシルは俯きながら言葉を絞り出す。どくり、と心臓が嫌な鼓動をたてる。まさか、セシルは何か危険にさらされているのだろうか、其れとも前に話してくれたよりも辛い過去を隠して一人で背負い込んでいたのだろうか。嫌な予感が頭の中を駆け巡る。どっちでも構わない、とイレヱヌは腹を括る。(例えどんな辛いものを背負っていたとしても、あたしは必ず受け止める)そう自分に言い聞かせた。 そして現在、イレヱヌとセシルは寝室のキングサイズの寝台の上で向かい合っていた。イレヱヌの眼前には露西亜帝国の女帝エカテリイナ二世の家具や食器コレクションもかくやという珍妙なおぞましい物体が幾つも並んでいた。「何……これ……」思わず呆然としてイレヱヌは呟く。「ラブトイだよ?知らない?」セシルは平然と答える。「存在は……一応知ってる……」ようやっと言葉を絞り出す。そうだ、存在くらいは知っている。イレヱヌは其処まで無知でも無垢でもない。聞きたいのは其処ではない「何でこんなもの…持ってるの…?」ようやっと疑問を口にすると、「何れイレヱヌと使いたかったし」とセシルは当然の如く答えた。イレヱヌは眩暈を覚えながら「…あたしに使いたいの…?」と何とか訊くと「ううん、僕に使ってほしい」とセシルはあっけらかんと答える。呆然としているイレヱヌに構わずセシルは大体の用途を説明した。最早言葉も無かった。イレヱヌはやっとのことで「セシル、そこは出すところであって入れる場所じゃないわ」と云った。「そうかもしれないけど、でも僕は入れるところとしても使うんだよ、イレヱヌ」セシルは必死でイレヱヌに説明する。 「肛門や括約筋がおかしくなったらどうするの?」「そんなこと起こったこと無いよ…。ねえ、イレヱヌ。此れからの僕達の甘い甘い時間にもっと思いを馳せてくれない?」セシルが両手でイレヱヌの手を取り精一杯甘えるが、イレヱヌはそんな言葉に構わず「おむつ生活を送るつもり?セシ
九月六日、ニュウスを見ていると仏蘭西に関する話題が出た。“アルジェリア戦争における不服従の権利に関する宣言”と題する左派知識人通称“百二十一人宣言”が発表されたらしい。これは「アルジェリア戦争を合法的な独立闘争であると認め、仏蘭西軍が行っている拷問を非難し、仏蘭西人の良心的兵役拒否者を政府が尊重することを呼び掛ける公開状」だった。知識人の中にはサガンの名前もある。サガンは世間からは眉をひそめられる軽薄な|私生活《プライベエト》のイメエジが強いが、実際にサガンに会ったイレヱヌはそうは思わなかった。 (フランソワーズはやはり正義と人間の尊厳について真っ当な考えの持ち主だ)イレヱヌはこの件で確信を持つことができた。 (仏蘭西が間違った方へ向かったとしても、闘う勇気を持てる人はまだ存在する)その事実にイレヱヌは救われる思いだった。 九月下旬からブランドの発表コレクションが次々開催された。 舞台裏で二十人ほどのモデル達が待機する。ピンと空気が張り詰めていた。デザイナアはモデル達を四方から眺めて最終確認をしながらモデルの襟やリボン、ネクタイ等を一番美しく見せられるようにと最終調節を行っている。 イレヱヌはベビイブルウのローウエストワンピを身に纏っていた。髪はカーラーでしっかりと巻かれた後にビーハイブヘア風のシニヨンにして、毛先と後れ毛を遊ばせる。デザイナアの鋭い視線で見詰められながら裾の調節をされ、まるで美術品にでもなった気分だった。はあ、と思わず息を漏らし、自分が緊張している事に気が付く。此れ程緊張したことは無い。バレエの発表会や大人だらけのパーティーに参加した時も、セシルと初めて身体を繋げた時も此のような緊張は無かった。 前のモデルが歩きだし、イレヱヌも続いて幕をくぐった。暗い空間の中、正面に白く輝く一筋のランウェイが続いている。流星の軌道のようだ。カツカツと歩いていき、先端でポウジング。一斉にカメラのフラッシュがたかれる。目が眩みそうなほどの強い耀はまるで閃光のようだった。 全身が身震いしてしまいそうだ。何と云う快感なのだろう。ぞくぞくと寒気の様な、其れなのに熱を帯びた様な衝撃が電流の如く脊髄を走って全身に流れ込んだ。 (さあ、ご覧なさい。よく眼に焼き付けなさい。あたしはこんなに美しいのよ。あたしはこの
イレヱヌはカジノに戻った。セシルは完全に酔っぱらい、緩んだ顔で笑っている。シャンパンを大量に呑んだらしい。サガンの前には大量のチップが置かれていることを見ると、今回は大勝ちしたようだ。喧騒と熱狂にフロア全体が包まれている。 (あたしは、間違ってはいない)自分は何れ変わってしまうという可能性が堪らなく怖かった。(とりあえずあの事だけはセシルには隠しておこう。また関係が拗れたら困る)セシルの性格からしてあの事を知ってしまったらまた一悶着起こるのでは、と嫌な予感がしたからだ。 翌日、イレヱヌ達は海に向かった。太陽の陽を照らし返す真っ白い砂浜と潮の香りが胸を浮き立たせる。イレヱヌはストラップレスの白いビキニを着た。マリリン・モンローやブリジット・バルドーなどの銀幕での水着姿を観てから、必ずビキニを着たいと思っていたのだ。セシルは夏用のセーラーを着ていたが、「僕もビキニが着たかった…」と落ち込んでいた。流石に水着姿を着ることは出来なかったらしい。「あたし、男の子が女の子になれる手術があるって聞いたことあるよ?」とイレヱヌは冗談混じりに伝えると、「其れは知ってる。でも僕は女の子になりたい訳じゃないもん」と頬を膨らませる。くすくすと笑うイレヱヌに「ところで……僕が女の子になったら、イレヱヌも物足りなくなっちゃうんじゃない?色々と」指先でイレエヌの植物の茎の様な腕をなぞる。イレエヌはセシルに水をかけた。「もー!やったね!」セシルは悲鳴をあげてやり返す。黄色い声をあげてじゃれ合う二人の姿を見て、サガンは口を開けて笑い声を上げた。 はしゃぎ疲れた三人は近くのレストランで遅めの昼食を摂った。林檎酒、ムウル貝の林檎酒蒸し、生牡蠣といったメニュウだった。ムウル貝の潮の薫りと林檎酒の爽やかで甘い林檎の薫りが鼻を擽る。セシルとサガンはノルマンディーの名物グルメに舌鼓をうったが、イレヱヌは量を控えた。この長期休暇の間にモデルのオーディションが控えている。 翌朝、イレヱヌはセシルと巴里に戻った。イレエヌが九月下旬~十月上旬に開催されるブランドの発表コレクションのオーディションを受けるからだ。 「セシルはもう少しのんびりしてても良いのよ?」と言ったが、「イレヱヌと二人きりになる時間が無かったんだもん」とにっこりとセシルは笑







