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ー第1章ー 1,象牙の塔

Author: 土浦タカ
last update publish date: 2026-08-01 15:24:17

 サン=ポウル学院は瑞西スイスのローザンヌの近くに存在する学院だった。建物は左右対称で赤レンガに白い装飾のあるエドワーディアン様式の外観で敷地は一つの町ほどもある。敷地内には孔球ゴルフ場や庭球テニス試合場コオト、しまいには映画館まで存在することには驚いた。

 サン=ポウルの日常は基本的に規則正しい生活其の物だった。朝七時に生徒達は一斉に起床し、ビュッフェ形式の朝食を摂る。授業は一般教科の国語や数学の他、芸術、運動教科にも力を入れている。イレヱヌは運動教科では乗馬が好きだった。元々動物は大好きだったし、賢くて穏やかな馬はとても魅力的な生き物だった。サン=ポウルは自然豊かな環境に建てられているため、馬に乗って瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良かった。草と土の匂いを感じるとプラザホテルに住んでいた頃、時々セントラルパークでジャンヌとピクニックをした事を思い出した。亜米利加に居る間にパパに馬をおねだりしてみるべきだった、とイレヱヌは少し後悔をする。因みに乗馬は好きだが馬球ポロは苦手だった。マレットは想像よりも重くて直ぐに腕が疲れてしまうし、馬を間違えて叩いてしまいそうで怖かった。

 一番好きな授業は芸術だった。オウケストラ、デッサン、彫刻、絵画。そして此処では大好きなバレエや演劇も授業で習えた。イレヱヌは授業以外の休日でも許可さえ貰えたら踊りの練習をし続けた。黒鳥のバリエイションの練習に熱中していたのに、何故か亜米利加の小学校で投げつけられた嗤い声が頭の中に響き渡る。此方を嘲笑う真っ黒な眼。まるで檻に入れられた動物を視るような眼だ。

 (あんた達なんか)鏡には王子を誘惑しようとする妖艶な黒鳥ではなく、眼差しだけで射殺そうとする悪魔の娘が映っていた。

 (あたしは、あんた達なんかの手には届かないところまで行ってやる)黒鳥の三十二回のフーチエを回りながら何度も何度も心の中で言い続けた。自分は二度とあんな奴等に敗けない。頭の中で泥で汚れ、ぼろぼろにされた雑誌が思い浮かぶ。(あんな惨めな思いは二度としない。あんな奴等入り込めない居場所を自分で作るんだ)

 午前中は六つの一般科目を学び、休憩中にホットショコラを飲んだ後午後からは運動若しくは芸術科目を学ぶ。授業の後は個々で勉強をし、21~23時には就寝する。此れが毎日の時間割スケジュウルだ。イレヱヌは勉強の時間には気分転換で以前と同じようにルルやサン=ポウルの周りの美しい自然などのイラストを描いたりポエムを綴ったりもする。イレヱヌにとって最早此れは日課だった。

 イレヱヌはサン=ポウルではごく普通の生徒だ。其の事が何よりも嬉しかった。学校では共用語は英語と仏蘭西語なので普段の生活には全く困らない。そしてイレヱヌにとって喜ばしいのは此処では聞き苦しい亜米利加英語を耳にしないことだった。此処で飛び交うのは間大西洋揚音アクセント英京ロンドン英格蘭イングランド南東部の容認発音だった。下卑た無教養な田舎者達に囲まれない生活の快適さをイレヱヌは実に七年ぶりに味わえた。近くには高層ビルも無いため、青い空が亜米利加にいた頃よりも広々としていて原っぱで寝転がって土と草の薫りで肺を充たすのが堪らなく気持ちが良い。休日は外でルルと遊んだり昼寝をするのがイレヱヌのお気に入りの過ごし方となっていた。ようやっと自分が居場所だと思える所に巡り合えた、と思った。とは言え、毎日が良いことばかりという訳でも無い。残念ながら何処にでも敵というものは存在するようだ。

「おい、真面目にやってんのかよ」

 苛立ちを現にした声がイレヱヌに向けられる。イレヱヌの敵、シリル・ベネディクトだ。シリルは英吉利イギリスの貴族院議員を父親に持つ家柄でイレヱヌはシリルの事が初めて会った時から大嫌いだった。常にふんぞり返っている態度も鴉の羽根を思い出させる青みがかって見える艶のある黒髪も象牙色の皮膚も榛色ヘーゼルの眼も何もかもが厭だった。明らかに此方を馬鹿にした態度をとりながら関わってくる所がカレン・サリバンを彷彿とさせる。そして先生方の前での澄ました態度は実家のパーティーで出会った招待客達の姿を思い出した。

 此の日は祖国の歴史について小論文レポオトに纏めて後日講堂で先生と生徒達の前で発表するという課題のため、イレヱヌはアレクサンドリア図書館も斯くやという学校の敷地内にある図書館で仏蘭西の歴史について勉強していた。

「やってる」顔も合わせたくはないため、本に目を落としたまま答えた。艶のある淡い赤褐色から橙褐色の桃花心木マホガニィで出来た卓子テェブルと本棚で埋め尽くされたインクの薫りがする此の空間がイレヱヌは大好きだった。こんな奴と会話をするために過ごしたくは無かった。

「嘘つけ。お前さっきから服飾史と美術史の本しか取ってないぞ」シリルはイレヱヌを榛色へーゼルの眼で睨め付ける。

 (何でいちいちそんなこと見てるんだろ)そう思いつつも嫌いな相手には態々口にしようとも思えない。

デガージュ!あっち行け」と暴言を吐いて野良犬の如く追い払ってやりたいものの其れも後々面倒になりそうだと思い、

「服や芸術だって国の大切な歴史だと思う」とだけ返した。イレヱヌは歴史の勉強は嫌いでも苦手意識があるわけでも無いものの、やや退屈に感じてしまった。其処で少しでも自分が興味を持てる分野に焦点を当てた小論文レポオトにすれば面白い内容になりそうだし、作業は捗るのでは、と考えたのだが

「冗談だろ。そんなもの発表してみろよ。皆から嗤われるのが目に見えてる」

「“祖国の歴史”そう先生は仰ったんだぞ。何も聴いて無かったのか?お前何時もボーッとしてて何も考えてないもんな?」

 ハッとシリルは鼻で嗤った。(死んだらいいのに)イレヱヌはとうとう堪えかねて反射的に

バ テフェアフォウトくたばれ!」罵倒が口をついて出てしまった。普段から此の言葉は非常に品がないため、エドワアドから絶対に言っては駄目だぞ、レディが悪い言葉を使っちゃ駄目だと注意をされている言葉だった。天井に学問や宗教、芸術についてのフレスコ画が描かれている場には全く相応しく無かった。イレヱヌは心から後悔する。此方が嫌いならせめて関わって来なかったら良いのに態々攻撃をして見下してくる。何て厭な奴だ。胸を刃物で刺されるような果てしない後悔と煮えたぎる怒りで頭は割れてしまいそうだった。「随分悪いお言葉使っちゃったね?」母親に擽られた時のと赤ん坊の様な笑い声が耳に触れる。声のする方へ目を向けると卵型の顔をした翡翠色の瞳に黄土色の髪をピクシーカットにした生徒がいた。大きな目と丸い頭がジーン・スィバアグを彷彿とさせる。手にはトルーマン・カポーティの新作“ティファニーで朝食を”を持っていた。

「聞こえちゃった?」バツの悪い気持ちで聞き返した。「出来れば先生達には報告してほしくなくて…」ぼそぼそと口ごもりながら懇願すると

「言わないよ!面白かったし!彼奴すっごく間抜けな顔してた!言い返されると思わなかったのかな?」とけらけらと笑われた。

 「僕はセシル・マグワイア。小論文レポオト頑張ってね。イレヱヌ」そういって軽やかに去っていった。

 生徒はセシル・マグワイアという名前の亜米利加出身の子だった。曾祖父に当たる人は石油産業の開拓者で父は上院議員のアンソニー・マグワイアらしいと後で知った。アンソニー・マグワイアは特にニュウスを真剣に観ている訳ではないイレヱヌにも聞き覚えの有る名前だった。人に言わせればセシルは“サン=ポウル学院創立以来の不良生徒”らしい。朝は平気で寝坊をしたり、授業を欠席する。平気で飲酒、喫煙もするし、恋人はしょっちゅう変わる。祖国は亜米利加だが、頻繁に外泊をして、日曜日の夜帰ってくるらしい。時々巴里まで足を伸ばしてディオールやシャネルの新作を大量に購入する事もある。夜遊びをしてフランソワーズ・サガンとも交遊するようになったとも聞いた。イレヱヌがセシルのことを最近まで知らなかったのも無理は無かった。規則正しい生活をしている中では顔を合わせる機会は余り無い。

 イレヱヌはセシルをてっきり女の子かと思ったのだが本当は男の子だった。四肢が華奢だし首筋も繊細で声が何処か甘い響きがある。髪は短いが、其の年はちょうど「悲しみよ、こんにちは」が映画化しピクシーカット(此の時は映画の影響もあり、セシルカットと言われていたが)が流行っており、セシルはジーン・スィバアグに引けを取らないほどピクシーカットが似合っていた。そしてセシルという名前は仏蘭西では女性名なことでイレヱヌは更に混乱した。

「セシルの事、最初女の子なのかと思っちゃった」小論文レポオトの内容に沿った本を探しながらイレヱヌはセシルに話し掛ける。

 “ティファニーで朝食を”はセシルの次にイレヱヌが借りた。カポーティは実家のパーティーで数回会ったことがあった。若かりし頃は美少年と言われたらしいが頭が大きくて小柄な甲高い声をしたカポーティはイレヱヌには“胴体の生えたハンプティ・ダンプティ”にしか見えなかった。(この感想をセシルに述べたところ、セシルは息も出来なくなるほど笑い転げた)下衆な男と評判のため悪印象しかないが、小説は好きな物が多い。

「其れよく言われるんだけど、男か女かってそんなに重要?」「僕は美しい。其れだけで十分じゃない?」セシルは胸を張って自信満々に言い切り、イレヱヌは思わず吹き出した。セシルも小論文レポオトの課題が有るため本を探しているらしい。セシルに主題テェマは何か聞いたところ、「亜米利加の世界的に有名な人達を何人か紹介しようかな」と大して興味も無さげに答えた。「亜米利加は歴史が短いからそんなに難しくは無い筈だし」

 こうして小論文レポオトが完成した。イレヱヌの小論文レポオトは仏蘭西の歴史というよりも、仏蘭西の著名な女性達の紹介と彼女達に纏わるゴシップになった。

 仏蘭西史上最も悪名高い王妃カトリイヌ・ド・メディシス、何の功績もない無能な二番目の王妃マリィ・ド・メディシス、仏蘭西史上最悪の悪女ルイ十四世の寵姫モンテスパン夫人、仏蘭西革命のスケープゴートにされたマリィ・アントワネットに特に時間をかけた。

 人選は仏蘭西国内で有名であることや功績、悪行の目立つこと、そして何よりもイレヱヌが興味を持てるかどうかが重要なポイントだった。ジャンヌ・ダルクは紹介したものの、正直言ってイレヱヌは余り興味を持てなかった。中世自体が魅力を感じられない時代だし、百年戦争の過程にも興味は無い。ジャンヌの神の声を聴いたという逸話に至ってはそもそも信じていなかった。歴史に其処までの興味は無いためアンリ四世の宗教改革に影響を与えたガブリエル・デストレや、三枚のペティコオト作戦のポンパドゥウル夫人に関しては余り深掘りはしなかった。

 しかし、宮廷での女の争いに関する逸話は面白いため、カトリイヌ・ド・メディシスやディアーヌ・ド・ポワティエ、モンテスパン夫人と前寵姫ルイィズ、マリィ・アントワネットと寵姫デュ・バリィ夫人などの世にも恐ろしい女同士の争いは挿話エピソォドに差し込んだ。戦争に関しては興味が無い。兵器が進化していこうと戦場が地獄であることはどの時代でも一緒だ。その代わり文化や芸術について調べることは楽しいため、近世欧羅巴ヨウロッパの女性達が憧れたヴェルサイユ宮殿は実はトイレが無く、女性達はドレスの下で用を足さなければならなかったこと、髪は毎日洗えないためシラミだらけで宮殿は実は非常に不潔だったことやカトリイヌ・ド・メディシスの仏蘭西宮廷での文化面に対する影響、何の功績も無いマリィ・ド・メディシスが“王の画家にして画家達の王”と評された天才画家ルゥベンスに「マリィ・ド・メディシスの生涯」という荘厳華麗な二十五枚に及ぶ大作を注文したこと、マリィ・アントワネットが流行らせたファッションとインテリア、手付かずの自然を残しつつも洗練されたプティ・トレノアン等には微に入り細を穿って面白おかしく発表した。

 資料には写真をふんだんに使い、イラストを加えて完成させた。資料を探して調べる事や、小論文レポオトを作成する事は大変ではあったものの、遣り甲斐を感じられて楽しかった。しかし先生からは、調査の緻密さと資料の出来については褒められたものの、興味に偏りが有りすぎるとの評価だった。

 セシルは確かに亜米利加の過去から現在に至るまでの著名な人物達を挙げたが、それは歴史上の偉人ではなく、ジョン・デリンジャーやボニーとクライドなどのアウトロー、“ワイルド・ビル”ヒコック、“平原の女王”と称されたカラミティー・ジェーン、ビリー・ザ・キッドといったガンマン、禁酒法時代の黒いヒーローアル・カポネ、リリアン・ギッシュやメイ・ウエストなどの往年の大女優達だった。イレヱヌは西部劇のモデルとなった人物達やリリアン・ギッシュやメイ・ウエストなど好きな女優についての話を聞けるためセシルの発表を楽しんで聞いていた。しかし先生は困惑しており、此れでは亜米利加の歴史ではなく、犯罪史と映画史だという感想を述べた後に、追加でもう一度真っ当な歴史の小論文レポオトを提出するようにと言い渡した。

「納得がいかないよ。小論文レポオト一から書き直して提出だなんて」セシルは廊下を歩きながらむくれて其の言葉を何度も繰り返した。

「セシル、其の台詞あたしはもう百回は聞いたよ」同じことを何度も聞かされたイレヱヌがため息をつきながらそう口を溢した。「だって納得がいかないよ。こんなに詳細に調べているのに」セシルは拗ねて口を尖らせていた。

「亜米利加についてだから、ジョオジ・ワシントンとかエイブラハム・リンカアンの功績だったり南北戦争とか奴隷制について触れた内容が期待されてたのかもね」イレヱヌはセシルを宥めながらそう言った。「次はそういう内容にしてみたら?」

「そんなの面白くないよ…。あーあ、もう憂鬱になっちゃう。こんなに頑張ったのにまた一から調べ直して提出だなんて」頬を膨らませてすっかり機嫌を損ねてしまった。

「確かに、発表はセシルが一番面白かったよ」

 イレヱヌは正直な感想を述べた。実際セシルの発表は面白かった。調査が非常に緻密でリアリティーが有るだけでなく、セシルが人物一人ひとりになりきりながら臨場感たっぷりに発表する様はまるで成果の発表ではなく一人芝居モノドラマを見ているようだった。イレヱヌを含む生徒達は皆セシルの発表に聞き入っていた。そう言うとセシルは目を輝かせて

「そう思うでしょう?少なくとも皆は一番僕の発表を真剣に聞いていたよ。僕が歴史や国語の授業をしたら絶対に人気が出るよ」

「セシルが先生をやるの?」イレヱヌは思わず吹き出してしまった。イレヱヌの知るセシルは平気で朝寝坊をしたり、授業を欠席する。制服も既定のワイシャツやネクタイを身に付けず、繊細なレエスが縁取られたブラウスに宝飾品ビジュウ付きの紅い天鵞絨ビロウドや黒の牛革カアフのリボンタイを着けていた。(尤も、此れに関してはイレヱヌも余り人の事は言えない。イレヱヌも首もとに既定のリボンではなくお気に入りのエルメスやグッチなどのスカアフを巻くことが多いし、足元は既定の靴下を其のまま履くのではなくソックスガアタアで留めたり、レエス生地のタイツを履いたりする)おまけに平気で飲酒、喫煙もするし、ボーイフレンドだって今までにも数えきれないほど作ってきたと聞いている。世の中でセシルほど教師という職業に向かない人間もそうは居ない。

「ははっ。オカマが教職に就く時代なんか来たら此の世の終わりだな」不愉快な声が聞こえた。案の定シリル・ベネディクトが其処にいた。友人のヘンリイ・スペンサア、エドガア・ボウルドウィンも一緒に居る。先生方の居る時には其のような言葉を使わない癖に、とセシルの卑劣さに腹が立った。セシルの前に立って応戦しようとすると、セシルが静止をしてシリルに近づいた。

「へえ、何でそう思うの?」にんまりとまるでチェシャア猫の様な笑みを浮かべながらセシルは尋ねた。シリルはセシルの反応リアクションに意表を突かれたようだが直ぐに

 「お前みたいな不品行な人間が人に何かを教える立場になんかなれるわけ無いだろ。父兄から石を投げられる未來が見えるよ。男にも女にも手当たり次第手を出しやがって気持ち悪い。お前がこの間トイレで上級生達と何やってたか知らないとでも思ったか?」と蔑みながら言った。ヘンリイ、エドガアも軽蔑の表情を隠そうと表情をしなかった。

「あはは、此の時代になってもそんなこと言うんだ?今は1957年だよ。クークラックスクランK K Kが其処ら中で暴れ回れた時代じゃない。君って亜米利加南部の教養の無い野卑な田舎者みたいだね。ああ、そういえば英格蘭イングランドは未だに同性愛は違法だっけ?欧羅巴ヨオロッパの国なのに物凄く遅れてるよね。僕の祖国そっくり!」笑いながら捲し立てるとシリルの顔がみるみる真っ赤になっていった。まるで茹でたオマアル海老のようだ。

「ふざけやかって!此の変態肛門性交ソドミーオカマ野郎が!精々ファックして性病に感染しとけ!糞食らえ!」何時もの尊大な態度は何処へやら、顔を紅くして聞くに耐えない罵倒を口にした。シリルは大抵の英吉利人と同じ様に非常に口が悪かった。

「シリル・ベネディクト」シリルはぎくりと肩を強張らせた。あろうことか校長のシャルル・ボドリィが聞き咎めたのだ。

「紳士とは思えない言葉ですね。悪い子!メッシャントゥ。さあ私の部屋までいらっしゃい。ヘンリイ、エドガア貴方達もですよ」

 三人は顔を見合わせるととぼとぼと着いていった。敵から解放されてイレヱヌはほっと息を吐き出す。セシルは三人の後ろ姿をみてけらけらと笑っていた。セシルの其の様子を見てイレヱヌは

「セシルったら、もしかして先生が近くに居たのに気付いてた?」と訊いた。

「うふふ。どうかな?」悪戯っぽくセシルが笑いウインクをしてみせた。笑った顔がジーン・スィバアグそっくりだった。イレヱヌも笑い返した。何故かとても可笑しかった。笑いが止まらない。お互いに見詰め合いながら笑い続け、廊下を駆け出した。

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    「イレヱヌ様、朝ですよ」 最大の苦痛が今日も容赦無く襲いかかる。使用人のスーザンが今日もイレヱヌを起こしにやって来た。扉のノックをした後スーザンは無遠慮な足取りでのっしのっしと象の如く足音を立てながら部屋に入ってくる。イレヱヌにとっての苦痛の一つだ。イレヱヌを苛立たせて怒らせる為に態とやっている、イレヱヌはそう感じ取った。「さあさあ、早く仕度をしてくださいまし。朝は忙しいのですからね」 そういって寝台卓子の上に水の入った手洗、柘榴と檸檬、蜂蜜の入った薔薇水、猪毛で出来たブラシ等を並べていく。 鈍鈍とした動きで顔を水で濡らし、橄欖油の使われたマルセイユ石鹸で顔を洗うと、ジャガアド織りのタオルで顔を拭きサンタ・マリア・ノヴェッラの薔薇水とアルガン油で保湿をする。その次に、スーザンはブラシでイレヱヌの髪を解かしていった。総てが終わるとイレヱヌは血の気の無い大理石の様な顔に赤みがほんのりと差して薔薇色の頬になり、うねりのある髪は艶のある金糸になった。憂鬱な気分は朝食を食べる気力さえ奪っていく。鈍鈍と椅子に座ると肉匙で白トリュフのスクランブルエッグを掬った。牛酪の濃厚な薫りが鼻を擽る。其のまま唇に運ばず持て余す。 (食べたくない) 堪らない憂鬱がイレヱヌを襲った。ぐにゃり、と身体を柳の枝の如くしならせる。イレヱヌは学校という牢獄に行かなければならない。「イレヱヌ様、早く朝食を済ませてくださいまし。急がなければ遅刻をしてしまいますよ。」 スーザンのキンキンとした声がイレヱヌの鼓膜を刺してくる。食堂にはイレヱヌのみのため、当然ながら他の声は聞こえない。ジャンヌの「I」と柔らかく触れてくる甘い声は聞こえてこなかった。鈍鈍と喉の奥まで流し込むが好物のスクランブルエッグがまるで泥の様に感じた。食事は結局金糸雀が啄む程度口にして終わらせた。イレヱヌはジャンヌがエドワアドと結婚して新居に引っ越してからはずっと憂鬱を味わった。 何しろイレヱヌは亜米利加に住んでいながら亜米利加という国を蔑んでおり、メンタリティは完全に仏蘭西人其の物だった。亜米利加は欧羅巴人からす

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー序章ー 1.硝子の城

    イレヱヌは金髪を靡かせながら馬に乗って駈歩させる。左右の拍子が非対称の三拍子で走る動きをしているため、軽く息が切れてきた。髪に太陽の陽が当たると、まるで稲穂の様な輝きを放つ。瑞西の瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良い。そうしていると悩みが総て風に乗って心の外へと流れ出ていくのを感じる。しかし、勿論此の瞬間は永遠には続かないことを知っている。何れだけ気に入ろうと此処は自分にとって終の棲家に出来る場所ではない。 ブロードウェイ・シアターで今日も母は豊かな金髪を耀かせながら舞台に立っている。「オクラホマ!」のヒロインローリーを演じている姿をイレヱヌは凝と見つめていた。 (ママンは今日も一番きれい) 誰よりも美しい母ジャンヌはイレヱヌにとっては何よりの自慢だった。  女優である母ジャンヌ・スチュワアト(公には旧姓ジャンヌ・ゴーテンと名乗り続けた)とイレヱヌは、プラザホテルのヴェルサイユ宮殿をモティーフにした部屋で無造作に置かれたドレス、宝石、毛皮、そして噎せ返りそうなほどの芳香を放つ花々に囲まれながら生活をしていた。 イレヱヌが祖国である仏蘭西の土を踏んだのは戦後漸く経ってからだ。ジャンヌという女は自分の不利益になることへの嗅覚は優れていた。仏蘭西が第二次世界大戦に参戦することが決定されるや否や状国の未來は当分は見通しが暗いと見なし何の未練もなく祖国を後にしてしまった。プラザホテルで生活をする理由は身の回りの世話は昔から使用人や恋人に任せきりだったため、生活能力が無いことという自覚をしているからだ。私生活を守りたいという至極尤もな理由などその一つに過ぎない。イレヱヌが産まれる前も、産まれた後にも誰にも教えることなく一人で育てると決めたのもそのような明らかに必要なものが欠けているからこその決断だったのだろう。 「I」と微笑いかけられて抱き締められると何時もオォ・デュ・コロンと母の皮膚の匂いが交じった甘い馨りに恍惚した。 ジャンヌはイレヱヌを時々Iと呼んだ。 イレヱヌの碧眼は耀の加減によって紫色にも藍色にも見えること。極東では藍色は“ai”と呼ばれること。そして の

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