LOGIN サン=ポウル学院は
サン=ポウルの日常は基本的に規則正しい生活其の物だった。朝七時に生徒達は一斉に起床し、ビュッフェ形式の朝食を摂る。授業は一般教科の国語や数学の他、芸術、運動教科にも力を入れている。イレヱヌは運動教科では乗馬が好きだった。元々動物は大好きだったし、賢くて穏やかな馬はとても魅力的な生き物だった。サン=ポウルは自然豊かな環境に建てられているため、馬に乗って瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良かった。草と土の匂いを感じるとプラザホテルに住んでいた頃、時々セントラルパークでジャンヌとピクニックをした事を思い出した。亜米利加に居る間にパパに馬をおねだりしてみるべきだった、とイレヱヌは少し後悔をする。因みに乗馬は好きだが
一番好きな授業は芸術だった。オウケストラ、デッサン、彫刻、絵画。そして此処では大好きなバレエや演劇も授業で習えた。イレヱヌは授業以外の休日でも許可さえ貰えたら踊りの練習をし続けた。黒鳥のバリエイションの練習に熱中していたのに、何故か亜米利加の小学校で投げつけられた嗤い声が頭の中に響き渡る。此方を嘲笑う真っ黒な眼。まるで檻に入れられた動物を視るような眼だ。
(あんた達なんか)鏡には王子を誘惑しようとする妖艶な黒鳥ではなく、眼差しだけで射殺そうとする悪魔の娘が映っていた。
(あたしは、あんた達なんかの手には届かないところまで行ってやる)黒鳥の三十二回のフーチエを回りながら何度も何度も心の中で言い続けた。自分は二度とあんな奴等に敗けない。頭の中で泥で汚れ、ぼろぼろにされた雑誌が思い浮かぶ。(あんな惨めな思いは二度としない。あんな奴等入り込めない居場所を自分で作るんだ)
午前中は六つの一般科目を学び、休憩中にホットショコラを飲んだ後午後からは運動若しくは芸術科目を学ぶ。授業の後は個々で勉強をし、21~23時には就寝する。此れが毎日の
イレヱヌはサン=ポウルではごく普通の生徒だ。其の事が何よりも嬉しかった。学校では共用語は英語と仏蘭西語なので普段の生活には全く困らない。そしてイレヱヌにとって喜ばしいのは此処では聞き苦しい亜米利加英語を耳にしないことだった。此処で飛び交うのは間大西洋
「おい、真面目にやってんのかよ」
苛立ちを現にした声がイレヱヌに向けられる。イレヱヌの敵、シリル・ベネディクトだ。シリルは
此の日は祖国の歴史について
「やってる」顔も合わせたくはないため、本に目を落としたまま答えた。艶のある淡い赤褐色から橙褐色の
「嘘つけ。お前さっきから服飾史と美術史の本しか取ってないぞ」シリルはイレヱヌを
(何でいちいちそんなこと見てるんだろ)そう思いつつも嫌いな相手には態々口にしようとも思えない。
「
「服や芸術だって国の大切な歴史だと思う」とだけ返した。イレヱヌは歴史の勉強は嫌いでも苦手意識があるわけでも無いものの、やや退屈に感じてしまった。其処で少しでも自分が興味を持てる分野に焦点を当てた
「冗談だろ。そんなもの発表してみろよ。皆から嗤われるのが目に見えてる」
「“祖国の歴史”そう先生は仰ったんだぞ。何も聴いて無かったのか?お前何時もボーッとしてて何も考えてないもんな?」
ハッとシリルは鼻で嗤った。(死んだらいいのに)イレヱヌはとうとう堪えかねて反射的に
「
「聞こえちゃった?」バツの悪い気持ちで聞き返した。「出来れば先生達には報告してほしくなくて…」ぼそぼそと口ごもりながら懇願すると
「言わないよ!面白かったし!彼奴すっごく間抜けな顔してた!言い返されると思わなかったのかな?」とけらけらと笑われた。
「僕はセシル・マグワイア。
生徒はセシル・マグワイアという名前の亜米利加出身の子だった。曾祖父に当たる人は石油産業の開拓者で父は上院議員のアンソニー・マグワイアらしいと後で知った。アンソニー・マグワイアは特にニュウスを真剣に観ている訳ではないイレヱヌにも聞き覚えの有る名前だった。人に言わせればセシルは“サン=ポウル学院創立以来の不良生徒”らしい。朝は平気で寝坊をしたり、授業を欠席する。平気で飲酒、喫煙もするし、恋人はしょっちゅう変わる。祖国は亜米利加だが、頻繁に外泊をして、日曜日の夜帰ってくるらしい。時々巴里まで足を伸ばしてディオールやシャネルの新作を大量に購入する事もある。夜遊びをしてフランソワーズ・サガンとも交遊するようになったとも聞いた。イレヱヌがセシルのことを最近まで知らなかったのも無理は無かった。規則正しい生活をしている中では顔を合わせる機会は余り無い。
イレヱヌはセシルをてっきり女の子かと思ったのだが本当は男の子だった。四肢が華奢だし首筋も繊細で声が何処か甘い響きがある。髪は短いが、其の年はちょうど「悲しみよ、こんにちは」が映画化しピクシーカット(此の時は映画の影響もあり、セシルカットと言われていたが)が流行っており、セシルはジーン・スィバアグに引けを取らないほどピクシーカットが似合っていた。そしてセシルという名前は仏蘭西では女性名なことでイレヱヌは更に混乱した。
「セシルの事、最初女の子なのかと思っちゃった」
“ティファニーで朝食を”はセシルの次にイレヱヌが借りた。カポーティは実家のパーティーで数回会ったことがあった。若かりし頃は美少年と言われたらしいが頭が大きくて小柄な甲高い声をしたカポーティはイレヱヌには“胴体の生えたハンプティ・ダンプティ”にしか見えなかった。(この感想をセシルに述べたところ、セシルは息も出来なくなるほど笑い転げた)下衆な男と評判のため悪印象しかないが、小説は好きな物が多い。
「其れよく言われるんだけど、男か女かってそんなに重要?」「僕は美しい。其れだけで十分じゃない?」セシルは胸を張って自信満々に言い切り、イレヱヌは思わず吹き出した。セシルも
こうして
仏蘭西史上最も悪名高い王妃カトリイヌ・ド・メディシス、何の功績もない無能な二番目の王妃マリィ・ド・メディシス、仏蘭西史上最悪の悪女ルイ十四世の寵姫モンテスパン夫人、仏蘭西革命のスケープゴートにされたマリィ・アントワネットに特に時間をかけた。
人選は仏蘭西国内で有名であることや功績、悪行の目立つこと、そして何よりもイレヱヌが興味を持てるかどうかが重要なポイントだった。ジャンヌ・ダルクは紹介したものの、正直言ってイレヱヌは余り興味を持てなかった。中世自体が魅力を感じられない時代だし、百年戦争の過程にも興味は無い。ジャンヌの神の声を聴いたという逸話に至ってはそもそも信じていなかった。歴史に其処までの興味は無いためアンリ四世の宗教改革に影響を与えたガブリエル・デストレや、三枚のペティコオト作戦のポンパドゥウル夫人に関しては余り深掘りはしなかった。
しかし、宮廷での女の争いに関する逸話は面白いため、カトリイヌ・ド・メディシスやディアーヌ・ド・ポワティエ、モンテスパン夫人と前寵姫ルイィズ、マリィ・アントワネットと寵姫デュ・バリィ夫人などの世にも恐ろしい女同士の争いは
資料には写真をふんだんに使い、イラストを加えて完成させた。資料を探して調べる事や、
セシルは確かに亜米利加の過去から現在に至るまでの著名な人物達を挙げたが、それは歴史上の偉人ではなく、ジョン・デリンジャーやボニーとクライドなどのアウトロー、“ワイルド・ビル”ヒコック、“平原の女王”と称されたカラミティー・ジェーン、ビリー・ザ・キッドといったガンマン、禁酒法時代の黒いヒーローアル・カポネ、リリアン・ギッシュやメイ・ウエストなどの往年の大女優達だった。イレヱヌは西部劇のモデルとなった人物達やリリアン・ギッシュやメイ・ウエストなど好きな女優についての話を聞けるためセシルの発表を楽しんで聞いていた。しかし先生は困惑しており、此れでは亜米利加の歴史ではなく、犯罪史と映画史だという感想を述べた後に、追加でもう一度真っ当な歴史の
「納得がいかないよ。
「セシル、其の台詞あたしはもう百回は聞いたよ」同じことを何度も聞かされたイレヱヌがため息をつきながらそう口を溢した。「だって納得がいかないよ。こんなに詳細に調べているのに」セシルは拗ねて口を尖らせていた。
「亜米利加についてだから、ジョオジ・ワシントンとかエイブラハム・リンカアンの功績だったり南北戦争とか奴隷制について触れた内容が期待されてたのかもね」イレヱヌはセシルを宥めながらそう言った。「次はそういう内容にしてみたら?」
「そんなの面白くないよ…。あーあ、もう憂鬱になっちゃう。こんなに頑張ったのにまた一から調べ直して提出だなんて」頬を膨らませてすっかり機嫌を損ねてしまった。
「確かに、発表はセシルが一番面白かったよ」
イレヱヌは正直な感想を述べた。実際セシルの発表は面白かった。調査が非常に緻密でリアリティーが有るだけでなく、セシルが人物一人ひとりになりきりながら臨場感たっぷりに発表する様はまるで成果の発表ではなく
「そう思うでしょう?少なくとも皆は一番僕の発表を真剣に聞いていたよ。僕が歴史や国語の授業をしたら絶対に人気が出るよ」
「セシルが先生をやるの?」イレヱヌは思わず吹き出してしまった。イレヱヌの知るセシルは平気で朝寝坊をしたり、授業を欠席する。制服も既定のワイシャツやネクタイを身に付けず、繊細なレエスが縁取られたブラウスに
「ははっ。オカマが教職に就く時代なんか来たら此の世の終わりだな」不愉快な声が聞こえた。案の定シリル・ベネディクトが其処にいた。友人のヘンリイ・スペンサア、エドガア・ボウルドウィンも一緒に居る。先生方の居る時には其のような言葉を使わない癖に、とセシルの卑劣さに腹が立った。セシルの前に立って応戦しようとすると、セシルが静止をしてシリルに近づいた。
「へえ、何でそう思うの?」にんまりとまるでチェシャア猫の様な笑みを浮かべながらセシルは尋ねた。シリルはセシルの
「お前みたいな不品行な人間が人に何かを教える立場になんかなれるわけ無いだろ。父兄から石を投げられる未來が見えるよ。男にも女にも手当たり次第手を出しやがって気持ち悪い。お前がこの間トイレで上級生達と何やってたか知らないとでも思ったか?」と蔑みながら言った。ヘンリイ、エドガアも軽蔑の表情を隠そうと表情をしなかった。
「あはは、此の時代になってもそんなこと言うんだ?今は1957年だよ。
「ふざけやかって!此の変態
「シリル・ベネディクト」シリルはぎくりと肩を強張らせた。あろうことか校長のシャルル・ボドリィが聞き咎めたのだ。
「紳士とは思えない言葉ですね。
三人は顔を見合わせるととぼとぼと着いていった。敵から解放されてイレヱヌはほっと息を吐き出す。セシルは三人の後ろ姿をみてけらけらと笑っていた。セシルの其の様子を見てイレヱヌは
「セシルったら、もしかして先生が近くに居たのに気付いてた?」と訊いた。
「うふふ。どうかな?」悪戯っぽくセシルが笑いウインクをしてみせた。笑った顔がジーン・スィバアグそっくりだった。イレヱヌも笑い返した。何故かとても可笑しかった。笑いが止まらない。お互いに見詰め合いながら笑い続け、廊下を駆け出した。
季節はいつの間にか冬になる。この時期は滑雪、氷戯が授業で選択できた。冬は寒くて大嫌いな季節だったが滑雪、氷戯は昔から好きなため、少しだけ楽しみな時期になった。(なお、ルルは冬はベッドから出てこなくなってしまう。ルルは大抵の猫と同じく寒さが苦手だった) サン=ポウル学院は冬になると中等部、高等部の三年が劇を演るという伝統だ。イレヱヌ達中等部は“ハムレット”と“シラノ・ド・ベルジュラック”を演ることになった。そして“シラノ・ド・ベルジュラック”の配役はあろうことかロクサアヌはイレヱヌ、クリスチャンはセシル、シラノはシリルだった。何とも悪趣味な人選だ。間違いなく不特定の人間が悪意を持って投票したに違いない。あの訳の分からない噂が校内に広まったらしいということは知っている。恐らくここ暫くの騒動への当て付けとしてこの配役になったのだろう、とイレヱヌは察した。人前で自ら道化となるなど御免なため配役を降りたかったが、大道具も楽器も自分は立候補出来るほど上手くはない。せめて家政婦や修道女役では駄目なのかと訊いたところ、ロクサアヌより家政婦や修道女が美人では物語が成り立たなくなってしまう、と家政婦役のアンヌと修道女役のジュリエットの至極もっともな意見により却下されてしまった。イレヱヌは生まれて初めて自分の美貌を心から呪った。セシルは顔だけの頭が悪い男役なんて…とブツブツ言っていたものの、クリスチャンの衣装を見るや否や「僕まるでルイ十五世みたいじゃない?」と上機嫌で身につけた。確かに“最愛王”と言われた美貌で知られるルイ十五世の若い頃の肖像画に似ている。シリルは眉間に皺を寄せ、何時もにも増して不機嫌そうだった。恐らく自分が見せ物になること(おまけに醜い容姿役)になることが耐えられないに違いない、とイレヱヌは思った。 そして放課後稽古が始まった。『貴方は震えている。そう、貴女は震えている。風にそよぐ木の葉のように。そう、震えているのだ。君の意思では無いかもしれぬが、私は感じる、懐かしい君の手の戦きが茉莉花の枝を伝って此処まで降りて来てくれる』『そうですわ。私は震えております。私は震え、涙に濡れて恋するあなたのものになるのですから。恋に酔わされて』 先ずは台詞の読み合わせから始まった。台詞を憶えて諳じる
イレヱヌは結局、恋愛も夢も、自分に出来ることさえも曖昧なまま歳を重ねていった。勉強だけは頑張り、先生に褒められる事も多くなる。手紙や電話でジャンヌ、エドワアドにも褒められた。其れは勿論嬉しい事なのだが其れだけだ。自分は勉強が出来るようになれば満足出来るわけではない。 いい加減先の見えない未來や終わりの無い勉強にも疲れはててデエトに誘われるまま気紛れに何度か行った。しかしやはり想像通りというべきか詰まらない、アンニュイな気分にさせるものだった。例え流行りの映画を観ても、ディナーをしても(此れなら独りで勉強をして過ごす方が良い)毎回結論はここに行き着く。そして相手に予習、復習を理由にデエトを早めに切り上げたいとやんわりと伝えると「イレヱヌは真面目だね」と笑われる。何故かその言葉は堪らなくイレヱヌの神経を障った。 イレヱヌをデエトに誘う相手は自分を実際より大きく見せようと見え透いた張りぼての虚勢を張りたがる脆弱なプライドの持ち主ばかりだった。大した実力も実績も無い人間には有りがちな事だ。しかしイレヱヌからすれば継ぎ接ぎだらけの虚栄の人間との会話は自慢話ばかりで空っぽな退屈極まりないものだった。 此れならセシルと小説や映画の事などで会話に花を咲かせる時間の方がよっぽど楽しい。そして相手は自分の事を好きな訳ではない。単にイレヱヌの姿だけ見て自分にとって都合の良い偶像を相手に妄想をしていただけに過ぎない。少しでも気持ちを楽しいものにしたいと“昼下がりの情事”のオードリィ・ヘップバアンを真似てジバンシィのバックに二つリボンの付いた白のノースリイブドレスに白のショートグロオブを着けたのだが、結局「何でこの人とのデエトだけのためにこんな格好したんだろう」と堪らなく後悔した。 (セシルに会いたい)その思いで頭が一杯になる。二人でお洒落をしてカフェに行き“キャンディ”や“醜い亜米利加人”について話したくて堪らなくなった。其の日のノオトにはデエトの服装、映画の内容を書いた。次いでに「あと一時間で世界が滅ぶとしたらもう一度同じ様に過ごす。永遠みたいに感じるから」と書くことも忘れなかった。女子寮の談話室で瑞西人のアンヌ・ベッソンと英吉利人のジュリエット・サンダースにその話をしたところ二人に大笑いされてしまった。 自分は特に夢というものを持つことも無く、シリルが言ったように特に好き
其の一件はどうやら目撃者が何人かいたらしい。同級生のアンヌ・ベッソン、ジュリエット・サンダースの様にセシルの味方をするものもいればヘンリイ、エドガアの様にシリルに同情するものもいたが、セシルは相変わらずの様子で朝は遅いため余りビュッフェでは見掛けない。同じ授業を受ける時にも居る時と居ない時があった。恐らく部屋で飲酒、喫煙をしているかボオイフレンド又はガアルフレンドと遊んでいるかだろう、とイレヱヌは推察した。イレヱヌは此の学校に来てから何度かデェトの誘いをされたことは有るものの、一度も受けた事は無い。全く知らない、興味も持てない相手と遊びに出掛けることなど楽しくない事くらい想像がついた。「ええっイレヱヌはまだボオイフレンドが出来たことないんだ?」ミルクシェイクを飲みながらセシルは目を丸くした。敷地内に併設された映画館で“昼下りの情事”を観た後にカフェで映画の感想やオウドリィ・ヘップバアンの美しさについて語った後に、恋愛観にも話が及んだ時そう答えたら驚かれた。「変?」とイレヱヌがクレエプシュゼットを小刀で切りながら首を傾げる。皿からはカラメルソオスと甜橙の薫りが立ち上る。「変では無いけど……でもデエトしたり恋愛するのって楽しいよ?ちょっと勿体無い気がする」とセシルは答えた。「イレヱヌは物凄く美人だし、勿体無いなとは思う。サン=ポウルの中では一番美人だよ」と言い、「尤も、僕は同率で1位だけど」と付け加えることも忘れなかった。イレヱヌはくすくす笑った。セシルのわざと道化を気取った自己陶酔な所はセシルのチャームポイントだとイレヱヌは気に入っていた。一頻り笑った後、「そう?一人で本を読んだり映画を観たりすることの方が楽しそうだけど」とイレヱヌが疑問を溢すと 「そんなこと無いよ。自分の事を可愛い、綺麗って言って甘やかして愛してくれる人が居るって素敵じゃない?」そう言うと恍惚とした表情で笑いかけてきた。なるほど、とイレヱヌは理解った。セシルは自分の事を持て囃してくれる相手が欲しいのだ。恋人という自分を受け入れてくれる存在からの愛を受け取ることにセシルは悦びを感じているのだろう。 (セシルは寂しいのかな)イレヱヌはセシルの父アンソニー・マグワイアの名前を何処で聞いたのか思い出した。不倫の|不祥事《スキャンダ
サン=ポウル学院は瑞西のローザンヌの近くに存在する学院だった。建物は左右対称で赤レンガに白い装飾のあるエドワーディアン様式の外観で敷地は一つの町ほどもある。敷地内には孔球場や庭球試合場、しまいには映画館まで存在することには驚いた。 サン=ポウルの日常は基本的に規則正しい生活其の物だった。朝七時に生徒達は一斉に起床し、ビュッフェ形式の朝食を摂る。授業は一般教科の国語や数学の他、芸術、運動教科にも力を入れている。イレヱヌは運動教科では乗馬が好きだった。元々動物は大好きだったし、賢くて穏やかな馬はとても魅力的な生き物だった。サン=ポウルは自然豊かな環境に建てられているため、馬に乗って瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良かった。草と土の匂いを感じるとプラザホテルに住んでいた頃、時々セントラルパークでジャンヌとピクニックをした事を思い出した。亜米利加に居る間にパパに馬をおねだりしてみるべきだった、とイレヱヌは少し後悔をする。因みに乗馬は好きだが馬球は苦手だった。マレットは想像よりも重くて直ぐに腕が疲れてしまうし、馬を間違えて叩いてしまいそうで怖かった。 一番好きな授業は芸術だった。オウケストラ、デッサン、彫刻、絵画。そして此処では大好きなバレエや演劇も授業で習えた。イレヱヌは授業以外の休日でも許可さえ貰えたら踊りの練習をし続けた。黒鳥のバリエイションの練習に熱中していたのに、何故か亜米利加の小学校で投げつけられた嗤い声が頭の中に響き渡る。此方を嘲笑う真っ黒な眼。まるで檻に入れられた動物を視るような眼だ。 (あんた達なんか)鏡には王子を誘惑しようとする妖艶な黒鳥ではなく、眼差しだけで射殺そうとする悪魔の娘が映っていた。 (あたしは、あんた達なんかの手には届かないところまで行ってやる)黒鳥の三十二回のフーチエを回りながら何度も何度も心の中で言い続けた。自分は二度とあんな奴等に敗けない。頭の中で泥で汚れ、ぼろぼろにされた雑誌が思い浮かぶ。(あんな惨めな思いは二度としない。あんな奴等入り込めない居場所を自分で作るんだ) 午前中は六つの一般科目を学び、休憩中にホットショコラを飲んだ後午後からは運動若しくは芸術科目を学ぶ。授業の後は個々で勉強をし、21~23時には就寝する。此れが毎
「イレヱヌ様、朝ですよ」 最大の苦痛が今日も容赦無く襲いかかる。使用人のスーザンが今日もイレヱヌを起こしにやって来た。扉のノックをした後スーザンは無遠慮な足取りでのっしのっしと象の如く足音を立てながら部屋に入ってくる。イレヱヌにとっての苦痛の一つだ。イレヱヌを苛立たせて怒らせる為に態とやっている、イレヱヌはそう感じ取った。「さあさあ、早く仕度をしてくださいまし。朝は忙しいのですからね」 そういって寝台卓子の上に水の入った手洗、柘榴と檸檬、蜂蜜の入った薔薇水、猪毛で出来たブラシ等を並べていく。 鈍鈍とした動きで顔を水で濡らし、橄欖油の使われたマルセイユ石鹸で顔を洗うと、ジャガアド織りのタオルで顔を拭きサンタ・マリア・ノヴェッラの薔薇水とアルガン油で保湿をする。その次に、スーザンはブラシでイレヱヌの髪を解かしていった。総てが終わるとイレヱヌは血の気の無い大理石の様な顔に赤みがほんのりと差して薔薇色の頬になり、うねりのある髪は艶のある金糸になった。憂鬱な気分は朝食を食べる気力さえ奪っていく。鈍鈍と椅子に座ると肉匙で白トリュフのスクランブルエッグを掬った。牛酪の濃厚な薫りが鼻を擽る。其のまま唇に運ばず持て余す。 (食べたくない) 堪らない憂鬱がイレヱヌを襲った。ぐにゃり、と身体を柳の枝の如くしならせる。イレヱヌは学校という牢獄に行かなければならない。「イレヱヌ様、早く朝食を済ませてくださいまし。急がなければ遅刻をしてしまいますよ。」 スーザンのキンキンとした声がイレヱヌの鼓膜を刺してくる。食堂にはイレヱヌのみのため、当然ながら他の声は聞こえない。ジャンヌの「I」と柔らかく触れてくる甘い声は聞こえてこなかった。鈍鈍と喉の奥まで流し込むが好物のスクランブルエッグがまるで泥の様に感じた。食事は結局金糸雀が啄む程度口にして終わらせた。イレヱヌはジャンヌがエドワアドと結婚して新居に引っ越してからはずっと憂鬱を味わった。 何しろイレヱヌは亜米利加に住んでいながら亜米利加という国を蔑んでおり、メンタリティは完全に仏蘭西人其の物だった。亜米利加は欧羅巴人からす
イレヱヌは金髪を靡かせながら馬に乗って駈歩させる。左右の拍子が非対称の三拍子で走る動きをしているため、軽く息が切れてきた。髪に太陽の陽が当たると、まるで稲穂の様な輝きを放つ。瑞西の瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良い。そうしていると悩みが総て風に乗って心の外へと流れ出ていくのを感じる。しかし、勿論此の瞬間は永遠には続かないことを知っている。何れだけ気に入ろうと此処は自分にとって終の棲家に出来る場所ではない。 ブロードウェイ・シアターで今日も母は豊かな金髪を耀かせながら舞台に立っている。「オクラホマ!」のヒロインローリーを演じている姿をイレヱヌは凝と見つめていた。 (ママンは今日も一番きれい) 誰よりも美しい母ジャンヌはイレヱヌにとっては何よりの自慢だった。 女優である母ジャンヌ・スチュワアト(公には旧姓ジャンヌ・ゴーテンと名乗り続けた)とイレヱヌは、プラザホテルのヴェルサイユ宮殿をモティーフにした部屋で無造作に置かれたドレス、宝石、毛皮、そして噎せ返りそうなほどの芳香を放つ花々に囲まれながら生活をしていた。 イレヱヌが祖国である仏蘭西の土を踏んだのは戦後漸く経ってからだ。ジャンヌという女は自分の不利益になることへの嗅覚は優れていた。仏蘭西が第二次世界大戦に参戦することが決定されるや否や状国の未來は当分は見通しが暗いと見なし何の未練もなく祖国を後にしてしまった。プラザホテルで生活をする理由は身の回りの世話は昔から使用人や恋人に任せきりだったため、生活能力が無いことという自覚をしているからだ。私生活を守りたいという至極尤もな理由などその一つに過ぎない。イレヱヌが産まれる前も、産まれた後にも誰にも教えることなく一人で育てると決めたのもそのような明らかに必要なものが欠けているからこその決断だったのだろう。 「I」と微笑いかけられて抱き締められると何時もオォ・デュ・コロンと母の皮膚の匂いが交じった甘い馨りに恍惚した。 ジャンヌはイレヱヌを時々Iと呼んだ。 イレヱヌの碧眼は耀の加減によって紫色にも藍色にも見えること。極東では藍色は“ai”と呼ばれること。そして の







